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by arachne_blog MY SNS
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2012年 01月 15日
完成された絵画のような美しいひとつひとつのカット。70年代のファッションや建物の様子が非常にリアルに再現されていて、懐かしく切ない気持ちで胸がいっぱいになります。リドリー・スコットがブラック・レインで大阪の街を新鮮に切り取ったように、トラン・アン・ユン監督は日本のような日本でないような、どこか非現実な空気をまとった世界を見せてくれます。
小説を読んでいないと、この映画は楽しめないと思います。本を読んでいる時に頭の中で広がっている空想上の光景と登場人物の語る声。その読者イメージを可能な限り正確に転写した映画であるといえます。 太宰治は、「本を読まないということは、そのひとが孤独でないという証拠である」。こう言っています。 村上春樹の小説を読むと、孤独が解消されるのではなく、孤独というのも決して悪いものではない、と感じさせてくれます。とはいえ、また現実の生活に戻ると、孤独や寂しさに心を痛める夜がやってくる時もあるのですが。 それぞれの登場人物は、不可解とも思われるような理由で、それぞれの人生を歩み、あるいは終わりにします。そこに分かりやすい共感を寄せることは難しいのですが、それこそが、人の持つ孤独の姿なのかなと思います。 恋愛映画というよりも、孤独と出会いと別れがテーマだというように感じました。いや、恋愛というものが、孤独と出会いと別れという成分で出来ているということなのかもしれません。 2012年 01月 13日
名作・定番といわれる映画ですが、初めて見ました。
ベトナム帰りのタクシードライバーが登場するアメリカンニューシネマというところから、ハードボイルド映画と想像してましたが、これ、マッチョな映画ではなく、非モテとか負け組の話ですよね。しかも、主人公のトラヴィスは、デートの相手をポルノ映画に連れて行くという、恋愛下手の極みでもあります。 そんなトラヴィスは、なぜ、売春婦のアイリス(若き日のジョディ・フォスター)を身を挺して助けようとしたか。それは愛や恋とはちょっと違う。苦しくてつらい状況に身を置いている人ほど、同じように苦しくてつらい状況の人に、同情して気持ちを寄せる傾向があるのではないかと思います。 別に画質が良い映画でもないんですが、あるいはそれゆえに、むせかえるほどの匂いや濃密さを感じられる映画です。 「X-MEN ファースト・ジェネレーション」も見ました。これはまあ、つまらない映画ではないですが、特に見終わった後、余韻とか充実感を感じられる映画でもなかったです。 2012年 01月 03日
![]() ![]() 今年のエグザイルメンバーオーディションには、この写真で応募することにします。 2012年 01月 02日
![]() カレンダーをご利用いただいた方より、プレゼントをいただきました! 天然酵母パンのお店をされている北海道の方より、お店のパンの詰め合わせです。 天然酵母パン&ナチュラルスイーツの店 rata+Paradisso(ラタ プラス パラデッソ)様 ありがとうございました! (厚かましく言っちゃいますが)現物のプレゼント大歓迎です。 2011年 12月 31日
![]() 日本版のカレンダーをもとに、イギリス版のカレンダーを制作&公開いたしました! Simple 2012 PDF Calendar Free Download イギリス在住の方は、こちらをご利用くださいませ。 もっと早く公開するつもりが・・・こんな時期になっちゃいましたが。 制作にあたっては、イギリス在住のMeg Morimotoさんにご協力をいただきました。ありがとうござました。 アメリカ版も作らなくちゃね、と考えています。 2011年 10月 03日
![]() ![]() ![]() 女子カメラ風な感じで撮ってみました。ごきげんよう。 形の良い雲を見かけても、すぐ流れてこわれちゃうんですよね。 2011年 09月 21日
![]() お待たせいたしました! 来年(2012年)のカレンダーが完成いたしました。 【今年の新機能】 すいません、今年は新機能特になしです。昨年度版と同じものになっています。 ダウンロードと詳しい解説はこちらまで 【シンプルな2012年カレンダーPDF無料ダウンロード】 皆様のご利用と、励ましのコメントお待ちしております。 (もちろん全てのコメントは読ませていただいております!お一人ずつに返信できなくてすいません) 2011年 07月 26日
![]() 新見市哲西町にある道の駅のウェブサイトです。 お近くにお越しの際は、千屋牛の焼き肉定食とか、いのしし丼とか、米粉パンなどをぜひぜひ。 毎週日曜日に開催している米粉ピザ作り体験も人気です。 (Produce/NDS corporation, Photo/Satoru Hayashida) 道の駅鯉が窪 2011年 07月 20日
このあいだ制作させていただいた、カイロプラクティック治療院の先生によるインタビューの中で、「自分自身が受けたい臨床家を理想として、それに自分が近づく。自分が受けたい治療院に自分がなる、それだけなんですよね。」という言葉を聞きました。
プロダクトデザイナーの深澤直人氏のドキュメント番組でも、試作したプロトタイプ商品を前に、「君、この商品を、自分のお金を出して欲しいと思う?」とスタッフの方に問いかけていた光景を印象深く覚えています。 自分が欲しいと思うものを、仕事として世の中に提供していく。自分が嫌だと思うことは、仕事として世の中に提供しない。仕事に対する気構えとしては、とてもシンプルなものですが、同時に、とても重い言葉です。 広告というものは、広く世の中の人目に触れるものですから、多くの人のパブリック/プライベートの空間に侵入していきます。広告の作り手とクライアントの関係性の中だけにあるものではない。 何かを売り込むという行為は、どうしてもある程度、お目汚し・お耳汚しの可能性があり、貴重なお時間をいただくことになるのですから、そこに対する配慮や敬意、謙虚さは必要であると思っています。 それを例えば、費用対効果とか、受け手の選択の問題であると考えて、何でもアリとしちゃうのには違和感を感じます。 そこではやはり、多様な価値観が世の中にはあるんだというところに委ねてしまうのではなくて、自分が嫌だと思うことは仕事として世の中に提供しないという自制と、自らが欲するようなものを世の中に提供していくんだという自負は必要だと思うのです。 個人の手の届く範囲としては、そういう気構えを持つことが多少なりとも可能でも、システム(組織)になると事情が複雑になってくるし、難しくなるんでしょうね。大人の事情や、自己保身や、自分のエゴには決してプライオリティを置かないんだと貫き通す決意は、並大抵のものではないと思います。 どんな広告が価値を持ち、どんな広告が邪魔な存在となるのか? それに対する共通項をつくることなんて出来ませんが、自分の作った広告(僕の場合ウェブサイトですね)が、自分がお金を出しても良いと思えるものなのか、自分が嫌だと思うものになってはいないか、というものさしを個人的に秘めた形で持っておくことは、決して難しくはないと思います。 消費や広告の構造が、これからどのように変化しようとも、そのような受け手としての皮膚感覚を大事にしていくことは、良き仕事のための基本原則であると思います。・・・「儲かる仕事」の基本原則は、またちょっと違ってくるんでしょうね。 2011年 07月 08日
先般の「広告」に対する疑問なんですが、ああ、こういうことなんですよと納得した良記事がいくつかありまして、ちとご紹介します。
----------------------------------------------------------------- 過剰な「選択の自由」と、広告の役割|analog http://hidetox.com/blog/2008/11/16/over-free-to-choose/ 糸井重里さんの重さ|ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね) http://mb101bold.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-6747.html ソーシャルメディア時代の企業広報活動を考察する。|ASSIOMA http://www.assioma.jp/?p=372 「マスメディア広告万能の時代は終わった」・休刊する「広告批評」の天野祐吉氏|日本経済新聞 http://www.nikkei.com/tech/personal/article/g=96958A88889DE3E2EBE3E5EAE0E2E3E0E2E5E0E2E3E2E2E2E2E2E2E2%3Bp=9694E2EBE2E5E0E2E3E2EBE7E6E0 ----------------------------------------------------------------- もちろん、どんな産業や業界にも、欺瞞や業みたいなものはあって、それは世の中というものの合わせ鏡であるわけです。それを持って二元論で要不要を論じるのも意味がないですし、その欺瞞や業に対して憤っているわけでもないのです。 糸井重里氏の「ほしいものが、ほしいわ」のコピー、広告批評の休刊、ウェブの登場、というメルクマールの前後では、広告を考え語っていく語法というのは、自ずと変わってくるでしょう、というのが考えていきたいポイントです。 広告というものを無邪気に「善きもの」として語れる時代でもないですし、天野祐吉氏の言う「テレビCMの持つ暴力性」とか、ある広告人の告白さんの言う、「広告が広告以外のなにものかになろうとしたとき、広告は、一度、消費社会に対する役割を終えたような気がします」という表現に、共感するものです。 光のある方を向いていくというのはもちろんなんですが、欺瞞や業を咀嚼するところから、深みのある表現というものは生まれてくるのかなとも思います。 広告、あるいは日本社会というのは、70・80年代に強烈な成功体験を享受したのかもしれません。今度は、時代の変化に対して、その成功体験が邪魔になってくるというのはあるのかも。 では、「邪魔にならない広告」とはなんぞや? というところまで考えを深めていかなければなりませんね。ただしそれを作り手の理論ではなく、生活感覚に根ざした言葉で表現したいと思うのです。 まあ、おいおいに。 2011年 07月 08日
2012年のカレンダー公開は、2011/9/20頃を予定しております。
お急ぎの方もおられるとは存じますが、ご了承いただければと存じます。 よろしくお願いいたします。 2011年 07月 07日
![]() 岡山駅西口にあるカイロプラクティック治療院です。 以前は天神町のシンフォニービル前にあったのですが、移転を期に「リフェクター若佐」と改名されました。 腕の良い先生ですので、肩こり腰痛などお困りの方や、一日中デスクワーク稼業の方などもぜひぜひ。 歯医者と整体・カイロプラクティックは、ぜひ定期的に通われるのをおすすめいたします。 リフェクター若佐 2011年 06月 22日
広告業界の末端にいる者として考えたいテーマがあるのですが、現代における「広告」って「邪魔なもの」ではないか? ということです。
いやもちろん、例えばエアコン買うときとか、印刷カタログ読みますし、店頭POPは見ますし、ウェブサイトにもアクセスしますけどね。広告という範疇にあるすべてのものが邪魔な存在ということではなくて。 例えば、テレビ番組を見る時にスキップするものだったり、無料のウェブサービスを利用する時にどこかに表示されるノイズ要素であったりして。それ自体が積極的に面白いというものではなくて、利用の対価として閲覧しなければいけない義務があるもの、という認識だったり。NYに比べて日本は街中が看板や広告だらけで美しくないなーと思ったり。 あるいは、「なんだよ、月々1,000円って広告してるけど、小さい文字読んだら結局コミコミで3,200円かかるんじゃん」とか、「医療保険のように見せて、実は損害保険じゃん」とか、「絶対に安全ですって言ってたけど安全じゃなかったじゃん」とか、雑誌やテレビの特集で取り上げられた「これが面白い」という記事が、目利きの人が本当に発見した、良いものだからオススメしたいというものじゃなくて、単なるクライアント企業がお金を払って作らせた広告であったりとか。なので、広告って、「まずは疑ってかかるもの」という認識が、強まっているように思います。 消費(物やサービスを買うこと)についても、好景気の頃は消費は生活を豊かにしてくれるものであり、快楽でしたけど、このような長く続く景気後退の時代や、環境問題の意識が高まってきた時代、高齢化社会への不安が大きい時代になると、消費に罪悪感がともなってきているように感じます。まだ見える厚型テレビをお金を出して捨てて、液晶テレビに買い換える。細かな機能の差異と価格を比較検討することに疲れたり、簡単なことをやりたいだけなのに、それが出来なかったり複雑だったり。 広告のイメージに踊らせれてしまった結果、特に欲しかったものでもないのに買っちゃって、すぐ使わなくなったり。あるいはそれが、長きにわたって価値を発揮してくれる商品ではなかったり。 物事のネガティブな側面だけを見ているに過ぎないのかもしれないですが、でも総じて、夢とか希望とか可能性が詰まっていたきらびやかな時代は昔の話のように思えるんです。 一昔前は、面白いCMやポスターを見て単純に「なんだこれ、面白い!」と無邪気に喜んでいたのですが、今は何か新しいものが出てくるのではなくて、従来からあるものの細かな機能の差異を訴求する広告なので、「ふーん、なるほど」で終わっちゃうことが多い気がするんですよね。そこには疑いのまなざしもあるし、既視感もありますし、一通りの欲しいものはもう既に持っているし。 広告以外のクリエイティブ、映画とか小説とかテレビ・ラジオ番組とか、おもしろいなー!と心を動かされるものは世の中にいっぱいあって楽しいのですが。 あるいは、括弧付きの「広告」というものは廃れて、今新たな広告の姿が立ち現れているのでしょうか。このあたりの広告や消費社会の歴史観というのは、なにか確立したものがあるんですかね。おすすめ本があれば、リコメンドください。整理して考えたいテーマなのです。 2011年 06月 22日
![]() ――難病女子による、画期的エンタメ闘病記。ビルマ難民を研究していた大学院生女子が、ある日とつぜん原因不明の難病を発症。自らが「難民」となり、日本社会をサバイブするはめになる。知性とユーモアがほとばしる、命がけエッセイ。 TBSラジオdiggでのインタビューをきっかけに知りました。 ポプラ社のウェブ連載エッセイの書籍化ですので、実は中身は今でも、ポプラ社のサイトから見ることができます。けど、読み終えて、書籍もアマゾンで購入させていただきました。 そうだったのかと驚いたのは、難病になっても日本の社会福祉制度で充分に保護されるものではないということ。病気に限らず、日本で困った状況に陥ってしまっても、セーフティー・ネットってあるようで無いみたいですよ・・・。 ユーモアあふれる文体なので、いわゆる「難病もの」のシリアスなトーンとは違う作品です。ユーモアって要は、自分を客観的に見るということですが、こういう状況の中で、自分を客観視できる大野さんの強さに、驚きと敬意をいだきますし、自分の背筋も伸びる思いです。 剥き出しの「生きること」にあふれた読み応えあるエッセイです。軽々に言っていいことでもないかもしれないですが、シンプルな感情の部分として思うのは、やっぱり「困っているひと」が「幸せなひと」になってほしいなと思います。 Amazon http://www.amazon.co.jp/dp/4591124762/ 書籍公式サイト http://www.poplarbeech.com/sp_pickup/komatteruhito/ 困ってるひと・ウェブ連載目次 http://www.poplarbeech.com/komatteruhito/005097.html TBSラジオdiggでのインタビュー(聞き手:荻上チキ) http://podcast.tbsradio.jp/dig/files/ogiue20110616.mp3 2011年 06月 11日
先日、ドキュメンタリーDVDの「ヒバクシャ・世界の終わりに」と「六ヶ所村ラプソディー」を借りて観ました。ただただ、重い映画でしたね。未来への希望が感じられる内容ではありません。決して感情的な作り方ではなかったですが、それでもこのふたつの映画を見ると、弱くて被害を受けている人に心を寄せ、核開発を推進する人間は、なんて愚かで邪悪な存在なんだろうと怒りを感じます。
映画の中に直接的に登場してくる核推進側の人間は少数で、確か、科学者がひとりと、現場の作業員がひとりと、市民説明会での行政側の人達くらいだったように思います。 現場の作業員の人は、推進側というわけではなく、生活のために仕方なくやっているというだけの人でしたが、科学者と行政の人達の顔つきは、非常にファナティックであり、能面のような表情でした。なんだか、新興宗教を妄信的に信仰している人のような顔つきに感じました。 なぜ、放射能による多くの被害者や環境破壊を生み出すことになっても、劣化ウラン弾を使い、原発を作るのかと言えば、観念的な言い方をしてしまえば、それは人間の欲望やエゴの成せる業でしょう。 ひとつ思ったのが、問題は人の「欲望」にあるのではなく、「執着」にあるのではないか? ということです。欲望と執着を分けて考えることは大事だと思います。個人の生き方にとっても。 人間の本能的な欲求として、睡眠・食欲・性欲があり、そして金銭欲・物欲があり、社会的な欲求があります。平たく言うと、 ・美味しいものが食べたい ・病気にかからず健康でいたい ・きれいな女性(かっこいい男性)と付き合いたい、結婚したい ・お金が欲しい、車が欲しい ・現在よりも、周囲の人よりも、よりよい生活がしたい ・仕事で成功して、お金や名声を得たい ・より価値のある人間として、周りから認められたい といったようなことです。 こういう欲求が人間にあるからこそ、人類や社会は成長してきたのでしょうし、こういった欲望を持つことは、健全な成長を促し、充実した人生を全うするために必要なエモーションであると思います。ところが、この欲望が執着に変化してしまうと、本人にとっても、周囲にとっても、苦しくなるだけではないかと思います。 どういう状態が欲望が執着に変化した状態かというと、例えば、美人の女性とお付き合いしたいなあと思い、あれこれ努力するのは欲望ですが、自分は美人の女性とお付き合いしなければいけない、とひとつのことに固執するようになると、執着であると思います。 美人の女性とお付き合いできれば楽しいけど、そうでなくてもそれなりに人生は楽しい、といった心持ちでしょうか。つまり、欲望が満たされない状態に対して不満足や恐怖や強迫観念を持たない、ということです。欲望を持ちつつ、同時にその欲望から自由であるという状態です。 もしその人に自己承認という欲望がある場合、例えば仕事の腕をみがくことで自分の価値を高めていくことは健全ですが、周囲から承認されるべき自己の不在を、嘘や虚飾で大きく見せようとすることは、結局永遠に、自分の現状と理想像のギャップに悩み続ける人生だと思います。 とはいえ、そういった負のエネルギーとかルサンチマンを強く持つ人はわりに、社会的に有名で大きな仕事を成し遂げることもひとつの現実だったりします。もちろんその成功が、本質的かつ永続的に、世の中から価値あるものとして認められるかというのは、また別の話ですが。 もちろん、執着をエネルギーにかえて成功に向かっていくという人生も、生き方のスタイルのチョイスの問題ですから、それはそれで選択の自由の話です。ただそういう人は、当然一つの物事にこだわる心的傾向が強いので、自分の価値判断以外のことに対して、多面的な見方ができず、排他的な傾向があるんですよね。 そういう人はそういう人で良いと思うですが、他方で、日本全体が進んでいく方向性やビジョンとしては、執着ではなく健全な欲望・欲求をベースにして、政策決定したり、経済や社会が動いていってほしいと思います。 社会問題を見ていると、利害の対立で問題が発生しているのではなく、状況が変化しても「引っ込みがつかなくなった」という理由で、問題が発生しているようなケースも多く見受けられます。それがまさに、執着しているという状態です。アメリカなんかは、自らの「正義」にひどく執着しているように思います。結果としては、それが何も生まなくても。 執着してしまう人というのは、言い換えると、満たされていない人で、愛されていない人だと思います。でも実は、本当に満たされていないのではなく、こうやって日本に生まれて仕事があってご飯を食べられるというだけでも、「生きてるだけで丸儲け」的に満たされ、愛されているわけです。そこに気づくことができれば、健やかな生活になります。その上で、欲望を肯定し、執着を否定していく。 従来の成長神話とは別の新たな日本の物語を再構築する時、同じようなことが言えるのではないかと思います。 ----- ヒバクシャ・世界の終わりに http://www.g-gendai.co.jp/hibakusha/ 六ヶ所村ラプソディー http://www.rokkasho-rhapsody.com/
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